2015年4月25日土曜日
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2015年4月6日月曜日
四年前のこと
先月のHEARTokyo三月展は、 八ちゃんを妊娠してからお休みしていたので四年ぶりだった。 四年前は3月11日が最終日だった。その日、 当時四歳の吉ちゃんと都政ギャラリーにいた。 3時から搬出だったので会場はお客さんとメンバーで賑わっていた 。もうすぐ閉会という時にゆ〜ら…ゆ〜ら…と、 ゆっくり大きく揺れはじめ、地震は長時間続いた。 私は吉ちゃんと長テーブルの下に頭を隠したけれど、 ギャラリーには倒れるものは何もなく安心感があった。 Rさんは外の様子を見に行って、「 周りのビルがこんにゃくみたいにクネクネ揺れてた」 と驚いていた。 搬出直前の腹ごなしに都庁の32階にある食堂にいたK君は、「 上はすごく揺れて食堂のおばちゃんや周りの人達はパニックになっ ていた。エレベーターが動かず階段で降りて大変だった」 と話した。 三時になったら余震を心配しつつ予定通り搬出に取りかかった。 私のコーナーでは画鋲で固定していた大きな額が一つ落ちたが壊れ はしなかった。 梱包した展示物を都庁内の郵便局から送りに行った。 天井の一部が落下して通れない場所があり、 ものすごい遠回りをしなければならず、 人影のない都庁周辺を吉ちゃんと二人で心細い気持ちで歩き、 郵便局にたどり着いた。局員さんに「地震、大丈夫でしたか?」 と聞かれ、「額が落ちて、外す手間が省けました」 などと冗談を言いながら受け付けてもらった。この直後、 日本中の輸送が混乱するとは考えもしなかった。 搬出の作業が終わった頃は、電車が全線止まっていた。 動く見込みはないと予測して歩いて帰宅する人もいたけれど、 私はギャラリーで過ごすと即決した。いつまでここにいるのか、 食べ物はどうするのかなど心配はあったけれど、 吉ちゃんに不安が伝わらないように、 キャンプに来たようなワクワクした気持ちで過ごすことにした。 食べ物は、 KさんやNさん達が品不足のコンビニを数軒回って苦労してみんな の分を買ってきてくれた。だだっ広い大理石の空間に、 展示メンバーだけだった。 子どもは吉ちゃんより二つ年上の女の子Iちゃんもいて、 二人とも広いギャラリーの中ではしゃいでいた。 いつ帰れるか分からないから体力を温存してほしいと思ったり、 疲れ果てればこんな場所でもぐっすり眠れるかと思ったりしながら 二人の姿を見ていた。 都庁職員の方が段ボールから真新しい毛布を出して配ってくれた。 まだ昼間だし寒くもないけど、 せっかく準備があるのだから配りましょうという雰囲気だった。 避難所で毛布の配布といえば、 バーゲン会場みたいに奪い合うものという勝手なイメージがあった ので、「何枚ほしいですか?」 と聞かれて未開封のビニールに入ったままの毛布を受け取るのが意 外だった。私は三枚もらった。その時、妊娠5週目だった。 不育症で通院していたから分かったけれど、 普通はまだ気付きもしない時期だ。 こんな初期の頃は 何をしても胎児の健康状態に影響はないと知りつ つ、なんとなく腰に毛布を巻いて過ごした。
時間が経つにつれてパラパラと人が集まり、 夜になって都庁が避難所に指定されると一気に増え、 譲り合わなければ座れないほどになった。 そばにいたご婦人達には毛布が行き渡らなかったので、 一枚お譲りしたら「駅で配っていたからたくさんもらったの」と、 お惣菜を分けてくれた。 新宿駅周辺ではお弁当やお惣菜を配っていたようだった。 夜8時半過ぎに大江戸線が動き出しIちゃん親子が帰るとようやく 、吉ちゃんはぐったりした。 それからしばらくして京王線も動き出したことをK君が教えてくれ た。当時はまだスマホを持っている人は少なかった。 たまたまK君が持っていて色々と調べてくれて本当に助かった。 吉ちゃんが寝ていたので少し様子を見て、 11時半頃にギャラリーを出た。 京王線新宿駅は大混雑していたが、 改札に入るのに入場規制されていたので、 入ってからはすんなり乗車できた。K君が同じ沿線だったので、 吉ちゃんを気遣いながら一緒に歩いてくれて、 不安なく電車に乗れた。こんなに夜遅く、 新宿から電車に乗る子どもは吉ちゃんの他には見当たらなかった。 電車はノロノロ運転で、家に着いたのは午前1時半頃だった。 タンスの扉が開いていたり、 ピアノの上に置いてあった花瓶が落ちて粉々になっていたけれど、 大した被害はなかった。主人は朝7時過ぎに帰宅した。
テレビを見て、 東北地方が津波で大変なことになっていると知った。 東京が一番揺れたと思っていて、 ギャラリーでニュース番組のインタビューに浮かれて答えていた自 分が酷く恥ずかしくなった。
その数日後、原発事故が起き東京への影響が心配になり、 すぐに吉ちゃんを一ヶ月ほど徳島の実家に預けようと決まった。 近々つわりが始まり家事がままならなくなるという理由もあったが 、それは主人と二人だけの秘密にしておいた。 徳島まで日帰りで吉ちゃんを飛行機で送った翌日は健診日だった。 順調と言われたがその日の夜、不正出血して流産した。 この時期の流産は母親側の原因ではないと分かっていたので、 何かを後悔する気持ちはなかった。けれど、 何の苦労もせずに吉ちゃんを出産した後、二度の流産を経て、 三度目の妊娠だった。それだけに、とてつもない絶望感だった。 震災で日本中が大きな悲しみを共有している最中、 私は自分のことで精一杯だった。 そういえば地震の当日も自分の体調や吉ちゃんのことばかり気にし ていたけれど、そんな私を周りのみんなは親切に気遣ってくれた。
四年が経ち、展示メンバーには入れ替わりもあったけど、 同じように優しい雰囲気に包まれている。あの震災の時、 私はギャラリーでみんなと一緒いられて本当に良かったと、 改めて感じた。先月の展覧会で搬出作業が終わり、 みんなで輪になって終わりの挨拶をしている時、 うろちょろ歩き回る二歳の八ちゃんと、 大人に交じって一人前に挨拶する八歳の吉ちゃんと親子三人で会場にい て、最後に笑ってみんなと「お疲れ様でした」と言えたことが、 とっても幸せに思えた。
ここまで書いたら、 震災の翌年も展示に参加していたことを思い出した。 その時は八ちゃんがお腹にいて、 つわりが一番辛い時期だったので搬入は主人に代わりに行ってもら い、受付当番も免除してもらい、幽霊部員みたいな参加の仕方だった。あの時は1年前を振り返る余裕もなかったのかな?
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